ゴッホについて
ゴッホの本名は「フィンセント・ファン・ゴッホ」。1853年3月30日に南オランダのブラバント地方で生まれました。
ゴッホは16歳の時に就職して画商として働きますが、気難しい性格や持病の「てんかん症」のため人間関係がうまくいかず、解雇されてしまいます。
その後もフランス語教師、本屋と転職を重ねるもうまくいかず、父親と同じ牧師を目指すも受験に失敗し、ついには非公式の伝道師(つまりボランティア)として働きます。
ですが、そこでもゴッホは自分の持ちもの全てを貧しい人々に与えるという極端な行動に出てしまい、人々には支持されたものの伝道委員会から狂気じみていると気味悪がられ、伝道師として認めてもらえませんでした。その後、貧しい人々をモチーフに絵を描き始めることから絵にどんどん心が動いていき、ついに27歳で画家になることを決意します。
ゴッホについては以前別の記事で紹介していますので、興味のある方は以下の記事もどうぞ!
ゴーギャンについて
ゴーギャンの本名は「ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン」。1848年6月7日に、フランスのパリで生まれました。
ゴーギャンは17歳の時に商船の水先人見習いとして3年、フランス海軍に入隊して2年間勤めましたが、家を出ている間に母親を亡くし、法的後見人となった隣人の銀行家ギュスターヴ・アローザの紹介で株式仲買人となります。
その後、11年間にわたってゴーギャンは実業家として成功して妻子を持つまでになりますが、この同時期から余暇に絵を描くようになり始めていました。
フランスが財政的危機に陥った1882年〜1883年の間に、ゴーギャンは職を失います。趣味で絵を描いていたゴーギャンが本格的に画家になろうと決意したのはまさにこの時であり、当時の年齢は35歳と画家としてはゴッホよりも遅咲きだったようです。ゴーギャンは友人の画家ピサロに助けられながら、本格的に画家としての活動をはじめます。
ゴーギャンがゴッホと出会ったのは、その4年後の1887年のことでした。
ゴッホとゴーギャンの共同生活
黄色い家
1888年2月末に、大都市パリの喧騒を離れ、南仏アルルに移り住んだゴッホは、画家たちが集まって芸術について追求し合うユートピアを作ろうと考えます。
そのために、ゴッホは部屋を何枚もの「ひまわり」の絵で飾り、自分の椅子を黄色く塗り、ワクワクしながら「黄色い家」を作りました。
そしてパリで出会った画家たちを呼ぼうと複数に手紙を送りましたが、この「黄色い家」に来ることを承諾した画家はゴーギャンただ一人だったのです。
二人の椅子
1888年10月23日にゴーギャンが「黄色い家」にやって来て、二人の共同生活がスタートしました。ゴッホは唯一呼びかけに応えてくれた友人ゴーギャンの来訪をとても喜び、彼のために立派な肘掛け椅子を用意します。この椅子が「ファン・ゴッホの椅子」と連作となっている「ゴーギャンの肘掛け椅子」です。
肘掛けもなく素朴で無骨なゴッホの椅子に対し、大きくて存在感があり、どこか気品あふれるゴーギャンの椅子。5つ年上のゴーギャンのことを、ゴッホは先輩画家としてだけでなく、兄のように深く尊敬していたのかもしれません。
この椅子のひとつ「ゴーギャンの椅子」は展示会で見ることができます!必見ですよー!
ゴッホとゴーギャンの作風の違い
ゴッホとゴーギャンは最初のほうは仲良く連れ立って絵を描いたり芸術論を語りあったりとお互い強く刺激を受け合い、仲睦まじく暮らしていましたが、それも長くは続きませんでした。
絵の中に実際とは違う色を使ったり、実際にはないモチーフを取り入れたりと、想像力で絵を描くゴーギャンは、言わば「見たいように描く画家」です。特にゴーギャンの自由な色使いの手法は、後に「ジョジョの奇妙な冒険」シリーズの作者荒木飛呂彦氏にも深く影響を与えたそうです。
対して、ゴッホは実際にあるものをそのまま写実的に描くことを好む「見たままを描く画家」と言えます。確かに、ゴッホの尊敬してやまない画家ミレーも、現実のありのままを描こうとする「写実主義」の第一人者でした。
展示会には二人が描いた「収穫」という絵があります。実際に目の前に広がる風景の色彩や空気感をそのままカンバスに写しとるゴッホに対し、ゴーギャンの「収穫」は、以前に自分が目にした女性たちを記憶をもとに絵の中に描き込み、独自の世界観を作り上げています。
二人の絵画に対する手法の違いがわかってとても面白いですよ。
余談ですが、ゴッホの作品の中で最も有名な「星月夜」のイメージが強い人は、「ゴッホも想像で絵を描く人なんじゃないか?」と思うかもしれません。ですが、私は「星月夜」はゴッホが夜の風景を、そのとき感じた感情や感動も込みで「見たまま」「感じたまま」描いた作品なんじゃないかな、と勝手に思っています。
ゴッホの耳切り事件
話が脱線してしまいましたが、そんなわけで絵に対する考えが大きく違っていた二人は、次第に衝突することが増えていきます。
ゴッホは懸命にゴーギャンのアドバイス通り、想像で描く努力をしてみるもののうまくいかず、どんどんストレスが大きくなってしまったのでしょう。次第に心が離れていくゴーギャンに対し、ついにゴッホはカミソリで襲いかかります。身の危険を感じてゴーギャンがよそで一晩を明かした夜、ゴッホは黄色い家で自分の耳の一部(耳たぶ)をカミソリで切り落とし、警察沙汰となってしまいます。
この頃のゴッホは弟テオの妻が妊娠したことにより、クリスマスを一緒に過ごせないことを知ったばかりで精神的に不安定だったとも言われていますが、このゴッホの行動が決定的となり、二人の共同生活はわずか2ヶ月で終わりを迎えてしまいました。
最後は悲しい別れとなりましたが、あの時どちらも譲らずに、絵画に対する自分の考えを大切に持ち続けたからこそ、ゴッホもゴーギャンも19世紀を代表する偉大な画家となったのではないかと思います。
この二人の2ヶ月間は、きっとそれぞれの何十年間よりも、ずっと濃密な時間だったのではないでしょうか。
またも余談ですが、ゴッホとゴーギャンの共同生活を漫画にしたオモコロの記事がすごく面白かったのでご紹介します!完全にパロディなのですが、かといって一概にも全部ウソとも言えないなんとも絶妙な漫画でしたw小野ほりでいさん大好きですwスーラの描き方とか…!
その後のふたり
その後、ゴッホはサン・レミの精神病院に入院しますが、そこで病と格闘しながらも自身の芸術手法を確立させていきます。ゴーギャンとの共同生活は破綻したものの、友人の画家エミール・ベルナールも交え三人の交流は手紙を通して続きました。ゴッホは1889年に、「渓谷」という絵画を描き、それを気に入ったゴーギャンは自分の作品との交換を申し入れています。
1890年2月に生涯で初めて「赤い葡萄畑」という作品が売れ、自分の絵画が評価され始めるもゴッホの心の孤独感は埋まることはなく、7月27日に自身をピストルで撃ち、37歳で生涯を終えます。
一方、ゴーギャンは南の島タヒチへわたり、そこに住む人々の文明から離れた原始的な生き方に魅了され、その姿を描き続けました。
ゴッホの死から11年後、ゴーギャンはタヒチで「肘掛け椅子のひまわり」を描きました。わざわざ友人に頼み、ゴッホの好きだった「ひまわり」の種をヨーロッパからタヒチに取り寄せてまで作品を完成させたゴーギャン。短い間でしたが、寝食を共にした亡き友人の死を、彼なりの方法で悼み、想いを馳せていたのかもしれません。
ゴッホの「渓谷」とゴーギャンの「肘掛け椅子のひまわり」も、展示会で見ることができるので一見の価値あり!
最後に
いかがでしたか?意外と知らないゴッホとゴーギャンの友情のお話。自分が大学時代ゴッホについて研究していたので、ついついゴッホ寄りの記事になってしまいましたが…。展示会に足を運ぶ前に、もしこの記事が参考になったら幸いです。
最後に、今回記事を書くにあたってお世話になったサイトをご紹介します。ありがとうございました!
「ゴッホとゴーギャン展」概要
現在は上野の東京都美術館で開催中です!愛知県での開催は来年(2017年)1月からだそうですよー!詳しくは公式サイトより。
- 会場:東京都美術館 企画展示室
- 期間:2016年10月8日(土) 〜 12月18日(日)
- 休室日:月曜日、10月11日(火)
※ただし10月10日(月・祝)は開室 - 開館時間:9:30~17:30
(金曜日、10月22日(土)、11月2日(水)、11月3日(木)、11月5日(土)は20:00まで)
※入室は閉室の30分前まで - 入場料:【一般】1,600円 【大学生/専門学校生】1,300円【高校生】800円【65歳以上】1,000円
- 公式サイト:http://www.g-g2016.com/
コメント